Around the garden

フラワーエッセンスプラクティショナーによる植物や自然と過ごす日常とエッセイ

いますごいハマっている歌声

ALL MY DEMONS GREETING ME

 

私は音楽にはまるのはだいたい、ボーカリストの歌声だ。

声のもつ響きがここちよいもの。

もちろん曲も大きいけれど。

 

曲も歌声もすごくマッチするととんでもなく気分はいい。

 

最近ドはまりしている歌声がある。

 

まずノルウェーのシンガー、オーロラ。

アナ雪2で「あーあー」という精霊の声のみ歌ってたので知られるようになったけど、

日本ではまだそうでもないのかな。

まだ日本未公開の映画「シークレットガーデン」でもテーマ曲を歌ってて、そのPVもすごくよかった。

彼女はまだ24歳。10代のころから自分で曲を作り、歌っていた。

とても変わった子どもだったようで、もちろん今もその個性は変わらない。

 

もっと若い頃の彼女の動画を見ると、あきらかに神がかるくらいの歌の神様が下りているかのよう。ケルト音楽にも通じるような歌声。

私がかなり好きなタイプの歌声。

ずっと聴いてられそう。

www.youtube.com

YouTubeチャンネルも登録し、日々聴いている。

 

これは5年くらい前のオーロラの歌声。こころつかむなあ。表現力もすごい。


Aurora: NPR Music Tiny Desk Concert

 

 

 

そしてもう一人はつい最近知ったほしのディスコ。

千鳥の番組で歌ってたから、何やっている人か知らなくて歌がうまい人という感じだったけど、お笑い芸人だというのを知り、

なんで・・?と思うくらいにプロ級の歌の表現力を持っている。

 

2/12放送の鬼レンチャンでのほしのくんの10レンチャンは見ごたえあったわーー。

サビだけじゃなくてオールで全部聴きたい! !

 


裸の心/あいみょんをほしのディスコ(パーパー)が歌ってみた!#14

 


炎 / LiSAをほしのディスコ(パーパー)が歌ってみた!#10


楓 / スピッツをほしのディスコ(パーパー)が歌ってみた!#12

 

ほんとになんで芸人やってるのかというくらい。

歌わなかったらおとなしめの陰キャラで、いじられそうな感じ。

話すのも女の子みたいにかぼそい声で。

 

しかし、歌いだすと、その細い声がすごくハリのある透明感で、30代前半だけど、声変わりしなかったのか?というほどの少年ヴォイス。

すごい才能だと思う。

なんでこんなにいいのかと思うのはそもそも私は少年ヴォイス好きだったというのもあるけど、声が高い男性アーティストが好きというのでもない。

 

とくに女性アーティスト曲を歌うと、女性でも男性でもないジェンダーをこえた何かを感じるくらい。

オーロラちゃんもそうだけど、今の若い人のヴォイスはこういう質を持っている。

そしてその歌い手自身が現実社会ではちょっとなじめないような、変わり者的なところがあるのは水瓶座的な歌い手がどんどん出てきているともいえる。

 

しかし、人のこころをつかむのだ。

 

私は歌番組が大好きだけど、ハモネプとか外人が日本の歌を歌う番組とかすごく好き。

しかし、カラオケバトルはどうも見ていても楽しめない。なぜかなと思ったけど

歌がうまいだけではだめなんだな。

この声とこの感性が聴きたいと思う人じゃないとダメなのかも。

 

外国の人が日本の歌を歌う番組ってけっこう発展途上国みたいなところから参加している人の歌声がめちゃめちゃピュアでこころ動かされることがある。

ということは声の状態ってやはりその人の内面があらわれているんだと思う。

 

ほしのくんのピュアさが伝わるから響くんだろうな。

そしてそういうものを多くの人が実は欲しているということも。

 

ほしのくんのYouTubeチャンネルももちろん登録し、曲ごとにいいねまで押したよこのわたしが(笑)

ハモネプみたいなのやってるのとコラボしているやつもすごくよかったな。

もうこいつミュージシャンだろ(笑)

 

www.youtube.com

自然とのつながりに関連する映画

ここ一か月かそこらで見た映画から。

まず

ウルティマぼくに大地の教えを という映画。

ウルティマ、ぼくに大地の教えを (字幕版)

 

なんとなくシャーマンのおばあさんが男の子に自然との関わりや大地と調和して生きることを教えているだけの素敵な映画にも思えるが

まあまあ社会的な暗部も反映されているので全体のトーンとしては重い映画。

でも非常に宗教的な内容。

 

場所はメキシコに近いアメリカの小さな村。

ウルティマというおばあさんは不思議な力をもつ魔女のような人でフクロウといっしょに主人公の男の子のお家にやってくる。

男の子はおばあさんから薬草について教えてもらう。

薬草をとるときも、ちゃんと薬草に許可をもらって大地と調和して生きることを教えていく。

 

しかし、小さな村は非常に熱心なキリスト教徒たち。

信仰にあつく、子供たちもその教えを何度も刷り込まれている。

 

そのためおばあさんは一部の村人にとっては異端な存在。

同じ村で貧しいがゆえ売春行為をしている女性も非難されている。

 

村人にとっては教義に反する存在であるのに必要とされているのが矛盾するところ。

 

医学では治せない病気にかかったら、まっさきにウルティマが呼ばれ、

あちこちで彼女は治療をして、治していく。

 

男の子は純粋な目でカトリックの教えとウルティマの教えについて相容れない部分をみつめざるを得ない。

 

 

ヨーロッパでの魔女迫害にも近いことなので、一神教の強い影響力を強く感じる。

子供のときにウルティマのようなおばあさんにいろいろ教わる機会があると違う大人になっていくだろうと思う。

 

 

あとようやくアイルランドケルトを主題としたアニメ2つも見た。

 

ブレンダンとケルズの秘密(字幕版)

ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(字幕版)

 

ソング・オブ・ザ・シーはすごくかわいかったー♪

「フィオナの海」を思い出す。

 

どちらも自然界の精霊が出てくるのでこういうのが好きな方には楽しめるかと。

アニメだと普通にこういう世界は受け入れられるからいろいろ作ってほしい。

 

 

あとドイツ映画の「雪の女王」もみた。

雪の女王

 

男の子も女の子も美形なのでそれはよかったけど

お話としてはちょっと弱い感じもある。

 

でもビジュアル的にお花の魔女のような人のいる庭のシーンや

お城でのシーンなど美しくて

とくにゼルダちゃんの衣装や花冠などに萌える。

ロケ地の自然も美しいのでビジュアル重視で見る映画。

 

アナと雪の女王2 (吹替版)

 

あと言わずとしれた「アナ雪2」

北欧神話的モチーフが織り込まれており、精霊も出てくる。

ディズニーもだんだん変わってきているのね。

 

一応、アナには恋人がいるけど、これまでのディズニーによくある

王子とお姫様物語からエルサという存在は異質かもしれない。

 

西洋での王子とお姫様の話は男性性と女性性の出会いと結合ということになるけど

この作品ではアナとエルサという二人の女性がそれぞれの役目を果たすというところが

大きい。

 

アメリカではようやく初めて女性が副大統領となることができ、

女性の時代が大きく動いていくことの象徴性もあるのかなとも思う。

 

 

本の整理を延々してしまう・・

秋から冬にかけて恒例の片づけ、整理が暇でもないのに続いている。

やり始めたら落ち着かないので・・。

だいたい整理はついたけど。

 

本の片づけは本棚のサイズが決まっているので、その棚の大きさにあう本を入れることになり、

ジャンルを同じにしたいのに、そこにあわないものもある。

また、この本はどこのジャンルになるのか悩むものもある。

そんなわけで非常に頭を使った。

 

本棚をじーーーっとみて、パズルのにように

「あ、この本はここじゃない」とわかるものがあれば移動。

 

最近は電子書籍で買うものもあるのだけど

電子より紙もののいいところは目につくことができるということ。

しまい込むととたんにその本を開くことはなくなる。

 

本が多すぎると埋もれるので開かない本になってしまう。

 

なのでもう開くことはないだろうとかいらないなと思うものを選別して

整理しなければならない。

 

埋もれていても必ず読むものがお気に入りの漫画。

これは思入れがあるので捨てられない。

 

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最近増えつつあるのが料理本

料理は健康本と並べることにした。

意外と基本の料理本がない・・・(^^;)

まあネットでも見れるし。

 

電子書籍で安いからと料理本を買ってしまったものがあるけど

ほんと開かない。そして見にくいのでやはり私には紙がいいかな。

 

料理本は少ないとは思う。買ってもそのレシピ作るかな・・と思うものもあるから。

それよりは最近は健康のためのアーユルヴェーダとか薬膳などレシピを作るための本のほうが参考になる。

 

今ほしいのはヴィーガンの本。ベジでも効率よくタンパク質など取れるにはどのようなメニュー作りが考えられるのかまで書いてある本。

 

好きなものがフレンチとエスニックなのでそれらの本の割合が多い。

料理本もその中でジャンルわけできるようにもしたい。

ただ、これも大きさがまちまちのものが多いのね。

 

自宅の本屋、図書館的に眺めるのが好き。

買ったばかりの雑誌などは本屋さんのように百均で購入したブックスタンドで

表紙がみえるように置いている。

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料理本また並び替えてみました。これで落ち着いた。

こんまりさんのやり方では本の帯はとるということだけど

ついたまま保管することがやはり多いな。

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人の家の本棚みるのもけっこう好きだけど

家にある本は自分の頭の中の興味とわりと一致する。

うちには仕事用の本棚にハーブ、アロマ、フラワーエッセンス

占星術、心理学、心理療法関係、ヒーリング関係が収まり、

それ以外の趣味の本棚に絵本、漫画、児童書、赤毛のアン

モンゴメリコーナー(これはひとつの棚をしめている)

文庫本、植物・薬草関係(ここにシュタイナー系やネイティブアメリカンものが入る)

ガーデニング、手芸の本、タロット、カバラ、スピリチュアル系の本に

料理・健康本、旅行関係、エクササイズやストレッチの本、神話、小説、エッセイ

という感じ。

 

書庫がほしい・・。

漫画に関してはうちの兄の持っている漫画とあわせて一部屋漫画部屋が屋根裏にある。

だいぶ処分はしてあるけど・・。

 

最近はふとんやカーテンもリニューアルされ、部屋がますます快適で

おこもりしやすくなり、どうだろう・・と思うのもあるけど

このコロナの状況では部屋の快適さを求める人たちが随分と増えたのではないだろうか。。

ニトリに週末行くと車が停められないくらい人が来てるし。

 

 

 

人がバズるということ

脱サラ41歳のマンガ家再挑戦 王様ランキングがバズるまで

 

漫画「王様ランキング」の作者の方の自分の作品が世の中で知られるようになるまでのエッセイを読んだ。

 

人や何か作り出されたものが世の中でめちゃめちゃ広まるというタイミングは

西洋占星術でいうと木星とか海王星、場合によっては冥王星のような巨大な力が働くタイミングと重なることがある。

 

鬼滅の刃」も作者の方の短編集など読んだところ、かなりマイナー路線というか独特な世界観のある方なので、大衆に多く広まっているのは何らかの力が働いているともいえる。

 

十日さんは描いているもの自体はおそらくそう変わっていないのではないかと思うけど

それが世の中に出ていくにはいくら面白い作品を書いたとしても一定数以上の人に読まれないと出版もできないし、収入にはなりえない。

 

よく昔の作家や画家が亡くなった後で世に知られることがある。

宮沢賢治もそうらしい。

創作を生業とするには知られないと始まらない。

知られないと収入にはならないし、生活できないから趣味でしかなくなる。

 

それを考えるとこの十日さんが若いときに漫画家を目指していたがうまくいかなかったのは昔は編集部に持ち込むか雑誌の漫画コンテストに入賞するしか方法がなかったというのも大きかった。

 

いまは作家も漫画家もネット媒体から生まれるのが当たり前になってきている。

十日さんの場合はある日ツイッターでめちゃめちゃバズったことが大きく運命を変えた。

 

実をいうと私はツイッターで「王様ランキング」を知り読んだ。

とても面白いと思った。

それまでもずっと描き続けていたと思うけど

面白いだけでは仕事にはしていけないんだなあとエッセイ漫画を読んでつくづく思った。

 

どんなに美味しいケーキを作る職人でもそのケーキを知ってもらわないとまったく売れないのと同じ。

 

漫画家というのは比較的内向性の強い性格の人が多いので、戦略的に考えることは難しい。しかし十日さんは単行本化の話があったときに一度断っている。

それはどうすれば閲覧数を増やすことができるのかかなり考えているのもあって、

自分の現実を分析し、もっとPVがなければたとえ単行本化されても打ち切りの可能性が生じることを知ったからだ。

これはなかなかの決断だと思う。

 

しかし、様々な葛藤を繰り返しつつ、孤独にこつこついろんな試みをおこなってきたことが報われたのかもしれない。

 

ツイッターでバズるのはいわゆるインフルエンサー的な人からの影響が大きい。

 

 

実際何かが広まるというのは個人的にはどのようなタイミングだろうかというのは

私はけっこう興味がある。

いまや占星術界の大御所である松村潔さんが急速にその名が占星術界で広まるようになったのは松村さんの進行の太陽が牡牛座に入ったことが大きいみたいな話を読んだことがある。牡牛座は金銭的なものや物質的なものの安定とつながるサインでもある。

 

進行の太陽は自分が生きているうちにせいぜい3つくらいしかサイン移動しないので

自分は生きてるうちに進行の太陽は牡牛座に入らないな・・と確認したこともある(笑)

 

貧しい暮らしをしていた人が大きくバズった人の一人として作家のJ.K.ローリングがいる。

日本では作家や漫画家はアニメ化かドラマ化が大きく発展するきっかけになることが多いけど、海外では映画化が大きい。

魔法もののファンタジーなんておそらくそうとうな数の作品が世に出ているだろうけど

その中でもハリー・ポッターは不動の地位にあがっていった。

 

出版されてベストセラーになったのは1997年。映画化は2001年。

この2つの年が彼女にとっては大きな転機だったといえる。

 

ちょっとチャートを見てみると

1997年ローリングさんが32歳のとき。

進行の太陽はもともと乙女座に固まっている天体の間を移動中だった。

それが出生の天王星に太陽がきたころのタイミングは大きいかも。

 

ソーラーアーク海王星が10室を移動中でMCの支配星である木星オポジションも大きい。

トランジットの木星はASCを通過しようとしている。

DSC近くに彼女の太陽がもともとあるのでASCに公転周期の長い天体がくると太陽とオポになって影響を与える。

 

映画化される2001年あたりにはトランジット天王星がASCを通過。

 

個人的にみてみるとトランジットもあるけど、わりに進行図も影響がみられることも多い。

 

女優さんの浜辺美波さんを見ていて、「この人けっこう今乗ってるなあ」と感じたときにチャートを見たことがあるんだけど、彼女はいま金星期である20歳。

キラキラ感が確かにある。

金星はとくに女優さんにとってはアイドル的な要素を含む。

彼女の金星に進行の太陽がのっかている。

その金星は乙女座の終わりの方にあるけど、トランジットの土星冥王星木星とトライン。というのも大きそう。

出生時間がわからないのでMCの支配星がわかればその天体へのアクセスがあれば大きい。

 

先日たまたまNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」で田中みな実さんを見たけれど

彼女自身今だけの流行りの中にいることを意識していて葛藤があるように感じた。

彼女の進行の太陽は出生の海王星にきている。なるほど。

射手座太陽なので、彼女のブームとしては木星が射手座移動のときのほうが大きかったかもしれない。獅子座の月はもっと認められたいという欲求につながっているかな。

 

 

バズることを想定して星を見ると、あまりうまくはいかない。

それよりも自分にとっての拡大期があるということを知った上で

こつこつと努力するしかない。

誰かに認められることよりも、まず自分を認めていくこと。

作家や創作家は才能が認められ、確かに売れないと生活ができない。

本当にそこがジレンマではあるけど、何らかの形で食いつなぎながらやっていくことが大事なんだな。

 

そのうち単独の作家や音楽家、クリエイターもクラウドファウンディングのような形で多くのファンによって直接その人の活動を支援できるような世の中になるのではないかとも期待はある。

アンという魔法

アンという名の少女

 

NHKでドラマ「アンという名の少女」が始まった。

Netflixではシーズン3まで見られるらしいが、入ってないので

とりあえずNHKでみる。

 

スピード感があり、カメラワークにセンスがあり、俳優陣も魅力的で引きこまれる。

なによりも主役のアン役のエイミーベスが見事にアンである。

 

過去にも映画化されたりしたことはあったけど、ちょっと年齢がいってて

ふっくらしてたりしてイメージと少し異なっていたりした。

 

私が「赤毛のアン」をはじめて読んだのは中学生のとき。

アニメの「赤毛のアン」が始まったときだった。

高畑勲赤毛のアンに夢中になってみていた。

そして原作を読み始めると非常に忠実にアニメ化されていた。

一話が章ごとになっていたが、それだとアニメの回数からすると足りなくなるから

追加したオリジナルな部分もあったりするが

美術も音楽も素晴らしく、丁寧にアンの世界を作り上げていた。

多くの日本人はその印象が強いので

今回の「アンという名の少女」のアンはアニメで出てくるアンとも似ているということに気づく。

マリラやリンド夫人もかなりイメージ通り。

 

ところがマシューはどうだ。

第一話の冒頭で海辺で馬にまたがって走る男性が出てくるが

まさかそれがマシューだなんて最初は誰も思わない。

ネット上では草刈正雄似だというマシューは

あまりにアニメ版や過去の映画で出てくるマシューとは異なり若い。

まあまあイケメンだし。

それが馬車じゃなくて、直接馬に乗っかって突っ走るシーンなどあれば

すごい見せ所ではないか。

 

名作は何度もリメイクされるがそれはただ原作をなぞるためではない。

名作をとおして、現代の問題をみること、考えることができるのだ。

このドラマもそれを意図している。

 

第一回目でアンが男の子ではなく、女の子ということで彼女は

「畑仕事は女の子でもできます」という。

これはオリジナルなセリフらしいが、女性のテーマもあり、

雇われたジェリーという男の子はフランス系というのも実は知らなかった。

そんな時代の背景も出てくる。

 

何度も何度も読んでいた「赤毛のアン」、映画にもなったりしてそれも見たはずなのに

ドラマ化されたものにもすぐに夢中になる。

で、また村岡花子訳の「赤毛のアン」を手に取ると・・

字が小さすぎて読めないではないか!!!( ゚Д゚)

以前から気になっていた松本侑子さん訳の「赤毛のアン」を早速キンドルで購入。

若いときに読んでいた人たちは今や、過去の文庫本の字の小ささと行間のなさで

読めなくなっているとは。。

それでもモンゴメリの原作は今読んでもまったく色褪せず、素晴らしい。

他の名作ものとは一線をこえる。独特の世界観がある。

 

これは登場人物の丁寧な描写とプリンス・エドワード島の自然をたっぷりと描写されているところにある。

 

アンという少女にとっての島の自然はたましいをもっとも癒す材料となり、

それを読み手も味わうことになる。

 

このお話に多くの人が惹かれるのは

孤児であるアン・シャーリーとあまり人と多く関わることなく静かに暮らす独身の中年姉と弟という孤独な3人の話でもあること。

 

ドラマでは孤児院時代などのアンの過去が出てきて、トラウマ的な状態でもあったりする。時代からすると孤児院は多くの子供たちがいたかもしれない。

けっこうたくましく生きていた子供たちが多かったかもしれない。

それでも感受性豊かなアンは変わり者だったし、生きにくさをずっと感じていたに違いない。トラウマがあったとしてもおとなしく、閉ざした少女ではなかった。

かといって、まわりの空気を読んでいい子でいる子でもない。

常に自分に正直に感情をあらわにし、個性のままに生きているのだ。

 

当時の因習的な島ではかなり目立つ存在だろう。

 

マリラとマシューにとっても今まで見たこともない生き物かもしれない。

アンの孤独は彼女が彼女のままでいることを許してくれる存在と出会うことで癒される。それは島の豊かな自然とマシューという存在。

もちろんマリラもそうではあるが、彼女からの愛情は厳しさの裏側に見え隠れし、

それもたぶんアンは受け取っているだろう。

そしてマリラとマシューもまたアンによってこころが豊かになり、人生に色がさしてくる。誰かを愛おしく感じることを経験していく。

 

実はマリラとマシューのように独身の姉弟というのもおそらく当時の島では

異質な存在かと思われる。

このようなマイノリティたちがさまざまな経験をしながら、家族になっていく様子は

どういうわけか感情的な要素を引き出される。

アンの人との関わり方はあまり境界がない。

これは人間、とくに女性を苦手とするマシューがすぐにアンを受け入れることができた要因でもある。

ものおじせずに初対面の大人と話もできる。

 

とても個性的なので日本だったら、海外でもいじめの対象になるかもしれない。

その個性の芽を残したまま、大人として成長していくところが物語の核となっていくけど、読み手はひたすらアンの個性がなす行動とまわりの人たちの反応を読みつつ、

親目線で、彼女がだんだん大人になっていく様子を見守る。

 

成長していく姿をみることは大きな刺激となる。

ありのままに生きているアンをみて、「そのままでもいいのだ」「大丈夫」

という気にもなる。

そうやってアンという魔法が自分の中に浸透していくと

現実を生きることももう少し楽になるのではないだろうか。

私が10代のときにこの物語に支えられて苦しいときを過ごせたのは

アンという友人がいたからである。

 

 

 

映画「ボーダー 二つの世界」

 

ボーダー 二つの世界 [Blu-ray]

 

見て見たかった「ボーダー 2つの世界」を見ました。

 

スウェーデンの映画です。

北欧らしさがあります。

 

主人公の女性は人間でありつつ、生まれつき人とかなり違う面があります。

匂いに敏感で、人の感情をみわけることができるのです。

 

それをいかした仕事についているという設定からし

非常に恵まれていると思われます。

もしかしたら北欧ではそうした能力は受け入れられているのかもしれません。

 

また、人と自然が非常に近いというのもそのひとつ。

主人公の女性は森で暮らしています。

常に自然とつながりながら生きているから自分でいられるのです。

 

異物を多くの人は受け入れにくく感じます。

 

この映画のレビューのいくつかを見てみると

受け入れられない人も多く見受けられました。

 

自分と異なるものを受け入れるための映画ではないと思いますが

異なるものについてどう感じるのかを刺激する映画です。

 

異物を排除するという話をちょうど昨日占星術のグループで話していて

それって免役もそうだなということも話してました。

 

コロナウイルスによって差別や異物、境界に関する問題が大きくなっています。

 

異なるものを認識するのは

まず自分はどう感じるかはおいておいてそのままを受けとめる

(ああ、こういうものがあるんだなという)

という意識がまず必要です。

 

その上で受け入れるかどうかは自分次第。

 

映画だと比較的たやすいけど、もしそれが現実ならどうだろうか。

 

時間はかかるかもしれない。

自分がこれまでどのような価値観で生きていたか、

どのような人に囲まれていたのか

どういう世界を見ていたのか

 

によって異なるものに慣れていくには時間が必要になるでしょう。

 

人間関係もそうですね。

基本異なる人間同士が関係をつなげていくのだから。

 

あきらかに違うものを排除するというやり方は少しずつ違った形になるかもしれないけど、人によっての許容度やこころのゆとりは経験をとおしてじゃないと

広げられないところはあります。

 

 

それにしてもこの映画の中にある森のシーン、うらやましい。

 

思ったよりセクシャルな場面もあって、若干蠍座っぽさを感じる映画でした。

 

日本の昔話ではつる女房とか竹取物語とか異界との境界が薄い感じがあったけど

まだそういう部分が残っている北欧のイメージが感じられます。

 

 

 

「鬼滅の刃」を象徴的にみてみる。

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鬼滅の刃」・・ふだんジャンプの少年漫画ってほとんど読むことないけど、

アニメ版をみてコミックを20巻まで読みました。

人気なのがわかるぐらいめちゃめちゃ面白いです。

 

ときは日本の大正時代。

鬼がいる世界で生きる人々。

多くの人は鬼によって孤児になり、鬼と戦うための鬼滅隊に入る若者もいる。

それでもよくある悪と戦う正義の話のようでもあり、

主人公が戦いや旅をとおして成長していく話でもあるとは思います。

 

ところが西洋との違いかもしれないけど

鬼は必ずしも悪ではないという見方もさせてくれる。

まず主人公の妹は鬼になってしまったけど、人を食うことはしない。

他にもよい鬼が登場するし、悪い鬼でももともと人間であったことを思い出す鬼もいる。

そんなところに複雑な鬼と人間との関係を見ることができます。

 

ダースベーダになってしまった少年がもとは普通の少年だったように

その人が悪となったのはその人の中の闇がかかわります。

 

主人公の妹であるねずこちゃんには主人公の中と同じように光の小人がきっといるのでしょう。

 

登場人物のほとんどが孤児、鬼に家族を殺されたかもともと捨て子であるというのも

興味深くもあるけれど、それを守護していく人もいる。(お館さまみたいに)

そのもっとも上にいるのが柱という存在。

鍛え抜かれた実力者たち。

それはライトワーカーとしてのもっとも強い存在。

 

この物語でおそらく読み手の子供たちが一番共感できるのは

善逸ではないかと思います。

 

それは現代の子供が大正時代のこの時代に入り込んだよう。

ものすごくビビリで弱く、客観的な見方をする。

「これ誰が考えたんだよ。死んでくれないかな」

「やばい奴だ!」

とか口調的には大正時代にはいないでしょう(笑)

 

しかし、彼はものすごく弱い存在でありながら、

表層意識が眠るととてつもなく強いのです。

 

自分は弱いという自覚があるので、劣等意識も強いし、

自尊心も低い。そして自分の強さについては知らない。

 

この話ではなんらかの感覚が人並み外れていたり、

非常にマイノリティで一般ではちょっと目立つか外れてしまうような人ほど

柱のような存在になっています。

 

主人公の炭治郎は嗅覚が人並み外れているので

匂いでいろいろなものを見分けることができるし、

善逸は音に敏感で音によって、相手を判断することができます。

 

音に敏感だからこそ、ビビリなのかもしれません。

そして大正なのにカミナリに打たれてから髪の毛が金髪という設定ですが、

アニメでは黄色い髪をしているので

私にはフラワーエッセンスでいうミムルスのように見えてしかたがありません(笑)

 

ミムルスはタイプとしては非常にこわがりで、音にも敏感、だけど激しく流れる水の中で立っていられるくらいに強い存在。

こわがりで弱い人間は弱い人間の気持ちがすごくわかるし、そうした人のために強くなれるのです。(善逸はそのタイプ)

そういうのはとても勇気となります。

 

花といえば鬼は太陽の光に弱いとされていて、それを克服するのに青いヒガンバナが必要とか、鬼よけになるのは藤の花という設定もフラワーエッセンスを知っている人には興味深いでしょう。

藤は昔から日本にはある植物で、名前でも藤原とか藤木など藤がつく苗字もあり、

奈良の春日大社では藤原氏の流れもあり、藤の花を社紋としています。

魔除け的な働きがあるかどうかはよくはわかりません。

紫というのは昔から高貴な色としているので、高い位や僧侶のような人しか身に着けないなど言われています。

それでも日本では紫の花は多いし、着物柄ではわりあい人気なのではないかと思います。

 

少年漫画だけど、柱とよばれる強い鬼と戦う部隊にかわいらしい女の子も何人か含まれているというのも面白く、強さというのは腕力だけの問題ではないことをあらわしています。自分の特技を磨けば、女性であってもそれをいかすことができるし、上にもあがれるのだという象徴にもみえます。

 

アニメでは今度劇場版となる無限列車の話もものすごく漫画で読んで面白かったです。

夢をあやつる鬼という設定ですが、夢そのものが鬼のようにアストラルではあるけれど、夢の中にある本人の意識が非常に反映されていて、心理的にも興味深い。

気づくということは本人の中にある意識がそうさせていくというなかなか高度なことを子供向けの漫画に盛り込まれていて、わくわくしました。

 

アニメと漫画の差をそれほど感じないというところも驚きでしたが、

日本のアニメのレベルが高いことと漫画がある意味アニメ化しやすい感じであったということもあるのかな。

それにしても登場人物のかなり個性的なキャラクターや鬼の姿やタイプなどこんなのを考えられる創造性ってかなりすごいです。

 

主人公が最初に弟子入りする鱗崎さんという方がいるけれど、その人のところを出てからは彼を指導する人はいないです。

しかし、彼が出会う様々なキャラクターたちによって技をみがくためのヒントを経て強くなっていきます。常に炭次郎自らが答えを導き出します。

それは夢の話の回でもそうです。

よく「考えろ」というセリフも出てきますが、自分で考えて答えをだしていくというメッセージは今の子供たちにとっても大事だなと感じます。

 

子供のときにひどい虐待をうけて自分の感情がなくなってしまった女の子カナヲは

自分で何かを決めるということはできません。

それを炭治郎は「カナヲはこころの声が小さいんだな」と解釈します。

 

この漫画の世界そのものはそうした心の闇をもつ子供たちの逃げ場かもしれません。

あたたかく、強く、守られていて、光を感じる世界。

 

そのような意味で読んでいくとそれがとても人気であることに希望を感じるわけです。