Around the garden

フラワーエッセンスプラクティショナーによる植物や自然と過ごす日常とエッセイ

アンという魔法

アンという名の少女

 

NHKでドラマ「アンという名の少女」が始まった。

Netflixではシーズン3まで見られるらしいが、入ってないので

とりあえずNHKでみる。

 

スピード感があり、カメラワークにセンスがあり、俳優陣も魅力的で引きこまれる。

なによりも主役のアン役のエイミーベスが見事にアンである。

 

過去にも映画化されたりしたことはあったけど、ちょっと年齢がいってて

ふっくらしてたりしてイメージと少し異なっていたりした。

 

私が「赤毛のアン」をはじめて読んだのは中学生のとき。

アニメの「赤毛のアン」が始まったときだった。

高畑勲赤毛のアンに夢中になってみていた。

そして原作を読み始めると非常に忠実にアニメ化されていた。

一話が章ごとになっていたが、それだとアニメの回数からすると足りなくなるから

追加したオリジナルな部分もあったりするが

美術も音楽も素晴らしく、丁寧にアンの世界を作り上げていた。

多くの日本人はその印象が強いので

今回の「アンという名の少女」のアンはアニメで出てくるアンとも似ているということに気づく。

マリラやリンド夫人もかなりイメージ通り。

 

ところがマシューはどうだ。

第一話の冒頭で海辺で馬にまたがって走る男性が出てくるが

まさかそれがマシューだなんて最初は誰も思わない。

ネット上では草刈正雄似だというマシューは

あまりにアニメ版や過去の映画で出てくるマシューとは異なり若い。

まあまあイケメンだし。

それが馬車じゃなくて、直接馬に乗っかって突っ走るシーンなどあれば

すごい見せ所ではないか。

 

名作は何度もリメイクされるがそれはただ原作をなぞるためではない。

名作をとおして、現代の問題をみること、考えることができるのだ。

このドラマもそれを意図している。

 

第一回目でアンが男の子ではなく、女の子ということで彼女は

「畑仕事は女の子でもできます」という。

これはオリジナルなセリフらしいが、女性のテーマもあり、

雇われたジェリーという男の子はフランス系というのも実は知らなかった。

そんな時代の背景も出てくる。

 

何度も何度も読んでいた「赤毛のアン」、映画にもなったりしてそれも見たはずなのに

ドラマ化されたものにもすぐに夢中になる。

で、また村岡花子訳の「赤毛のアン」を手に取ると・・

字が小さすぎて読めないではないか!!!( ゚Д゚)

以前から気になっていた松本侑子さん訳の「赤毛のアン」を早速キンドルで購入。

若いときに読んでいた人たちは今や、過去の文庫本の字の小ささと行間のなさで

読めなくなっているとは。。

それでもモンゴメリの原作は今読んでもまったく色褪せず、素晴らしい。

他の名作ものとは一線をこえる。独特の世界観がある。

 

これは登場人物の丁寧な描写とプリンス・エドワード島の自然をたっぷりと描写されているところにある。

 

アンという少女にとっての島の自然はたましいをもっとも癒す材料となり、

それを読み手も味わうことになる。

 

このお話に多くの人が惹かれるのは

孤児であるアン・シャーリーとあまり人と多く関わることなく静かに暮らす独身の中年姉と弟という孤独な3人の話でもあること。

 

ドラマでは孤児院時代などのアンの過去が出てきて、トラウマ的な状態でもあったりする。時代からすると孤児院は多くの子供たちがいたかもしれない。

けっこうたくましく生きていた子供たちが多かったかもしれない。

それでも感受性豊かなアンは変わり者だったし、生きにくさをずっと感じていたに違いない。トラウマがあったとしてもおとなしく、閉ざした少女ではなかった。

かといって、まわりの空気を読んでいい子でいる子でもない。

常に自分に正直に感情をあらわにし、個性のままに生きているのだ。

 

当時の因習的な島ではかなり目立つ存在だろう。

 

マリラとマシューにとっても今まで見たこともない生き物かもしれない。

アンの孤独は彼女が彼女のままでいることを許してくれる存在と出会うことで癒される。それは島の豊かな自然とマシューという存在。

もちろんマリラもそうではあるが、彼女からの愛情は厳しさの裏側に見え隠れし、

それもたぶんアンは受け取っているだろう。

そしてマリラとマシューもまたアンによってこころが豊かになり、人生に色がさしてくる。誰かを愛おしく感じることを経験していく。

 

実はマリラとマシューのように独身の姉弟というのもおそらく当時の島では

異質な存在かと思われる。

このようなマイノリティたちがさまざまな経験をしながら、家族になっていく様子は

どういうわけか感情的な要素を引き出される。

アンの人との関わり方はあまり境界がない。

これは人間、とくに女性を苦手とするマシューがすぐにアンを受け入れることができた要因でもある。

ものおじせずに初対面の大人と話もできる。

 

とても個性的なので日本だったら、海外でもいじめの対象になるかもしれない。

その個性の芽を残したまま、大人として成長していくところが物語の核となっていくけど、読み手はひたすらアンの個性がなす行動とまわりの人たちの反応を読みつつ、

親目線で、彼女がだんだん大人になっていく様子を見守る。

 

成長していく姿をみることは大きな刺激となる。

ありのままに生きているアンをみて、「そのままでもいいのだ」「大丈夫」

という気にもなる。

そうやってアンという魔法が自分の中に浸透していくと

現実を生きることももう少し楽になるのではないだろうか。

私が10代のときにこの物語に支えられて苦しいときを過ごせたのは

アンという友人がいたからである。